【米大統領選】クリントン・オバマ激突の「漁夫の利」狙う硬骨の人マケイン

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 米大統領選民主党候補の指名争いが長期化している。共和党では、スーパーチューズデー(メガチューズデー)を制したマケイン上院議委員(71)がその後も順調に獲得代議員数を伸ばして指名に大手をかけたが、民主党では、クリントン上院議員(60)とオバマ上院議員(46)が丁々発止の攻防戦を展開。どちらも完全勝利には依然としてほど遠いからだ。本選でマケイン候補を打ち破ることができるのはクリントン候補なのか、それともオバマ候補なのか。史上最強の国家、米国の国家元首の選出なだけに、対外の火事視していられない。

 「変革」を旗印としたオバマ候補は、2月5日のスーパーチューズデー以後も、2月9日実施されたルイジアナ、ネブラスカ、ワシントンの3州で行われた予備選で勝利。また、米領バージン諸島では民主党党員集会が開かれ、ここでもオバマ候補が勝ち星を挙げた。翌10日には、北東部メーン州に舞台を移して党員集会が行われてオバマ候補が勝利。

 さらに12日には、ワシントン(コロンビア特別区)、メリーランド、バージニア両州で予備選が行われ、オバマ候補が何と全勝して「首都決戦」を制してしまった。オバマ候補はスーパーチューズデー後、8連勝したことになる。AP通信によると、これにより同候補が獲得した代議員は1210人で、クリントン候補の1188人を初めて上回った。指名獲得に必要な代議員数は2025人。

 クリントン陣営は、選対主任パッティ・ソリス・ドイル氏が10日辞任。後任には、ファーストレディ時代からのクリントン候補の側近であるマギー・ウィリアムズ氏が就任した。選挙対策の立て直しが目的。14日になって、スーパーチューズデーの決着が長引いていた民主党のニューメキシコ州党員集会の結果が確定し、同候補がオバマ候補を僅差で下したことが判明。クリントン候補の得票数は7万3105票、オバマ候補は7万1396票。差はわずか1079票。

 クリントン候補はこれにより、同州の26人の代議員枠のうち14人の代議員を獲得した。同候補は、スーパーチューズデー以後8連敗していただけに、今回の勝利は久方ぶりの朗報。

今後は、19日のウィスコンシン州予備選、ハワイ州党員集会を経て、3月4日には大票田のテキサス、オハイオ両州で予備選が戦われる。クリントン候補は、とりわけテキサス、オハイオの予備選は絶対負けられないところだ。しかし、有権者にヒスパニック系が多いテキサス州と、白人中高年層が多いオハイオ州で敗北するような事態になると、対共和党との本選の絡みもあり、民主党候補一本化=オバマ候補指名圧力が高まり、選挙戦からの撤退せざるを得ないはめに陥る公算もある。

 対する共和党のマケイン候補は、気骨の人である。イラク戦争に対する厭戦気分、ブッシュ大統領の下で8年間続いた共和党政権への米国民の「飽き」。こういった「負の部分」に対しても、真っ向から立ち向かう姿勢は一向に衰えていない。

 マケイン候補は1936年8月生まれで現在71歳。祖父と父は海軍大将という軍人一家の家庭だ。マケイン候補も海軍兵学校を卒業して1958年に海軍に入隊。62年のキューバ危機では、空母エンタープライズ乗組のパイロットとして海上封鎖に参加。また、67年春からは北ベトナム爆撃に参加。22回目の出撃でハノイの発電所を爆撃中に地上からのミサイルに被弾。ハノイ市北部のチュバック湖に墜落して、北ベトナム軍の捕虜となった。

 当時、マケイン候補は海軍少佐、撃墜された時、両腕と足を骨折。駆けつけた群衆が機体から引きずり出した。重態だったが、北ベトナム側は病院ではなく、刑務所に収容した。長く生きられないと判断したためとみられている。だが、2日後に待遇が変った。当時、マケインの父親は海軍大将、欧州駐留海軍の総司令官だった。北ベトナム政府はこれを知って政治的に利用しようとしてマケイン少佐を病院に移して治療、捕虜にしたことを公表。

 これに対し、当時のジョンソン米政権は68年7月、父親を太平洋軍総司令官に任命。ベトナム戦域に展開する全米軍の総司令官とした。この直後、北ベトナム政府は獄中のマケイン少佐に対し釈放を提案した。米国は政府高官の子息を特別扱いしていると宣伝する目的だった。同少佐は「捕まった順番に捕虜を釈放するなら応じる」と主張して拒否。その後の厳しい拷問にも拘わらず節を曲げなかった。この厳しい試練の後遺症で、マケイン候補の両腕は今も肩より上に上がらない。

 北ベトナムがマケイン少佐を釈放したのは1973年3月。同少佐は、その後も8年間軍務に就いていたが海軍大佐で退役、将官になる夢をかなぐり捨てて政治家に転身する。北ベトナム爆撃では、ワシントン政界が攻撃目標にまで介入、「パイロットは1つの目標を何度も繰り返し攻撃しなければならなかった」という不満があったからだという。同じ目標の上空を何度も飛ぶことは、敵にわき腹を見せて「撃て」と言うのと同じである。既成政治家に対する厳しい批判の目はここからきている。

 イラク戦争には最初から賛同した。しかし、その後のブッシュ政権の占領政策に対しては批判し続けてきた。拷問ばかりでなく米軍が尋問に用いる手段の中の拷問に近いものに反対し続けてきた。自党の政府の政策に反対するのは意欲的な政治家にとっては厳しいリトマス試験紙である。マケイン氏がイラクへの増派作戦を熱心に推奨しなければ、この戦略が遂行されていたかどうか分からない。

 うがった見方をすれば、民主党におけるクリントン、オバマ両候補の泥沼の戦いが、マケイン候補のホワイトハウス入りを後押しするという事態もないわけではないのである。マケイン候補の実績は、彼の生きてきた軌跡が物語っているからだ。

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このページは、J_Ishikawaが2008年2月19日 08:50に書いたブログ記事です。

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