【米大統領選】国教なき米国の最高神官として機能する大統領制―背景に米国市民宗教=米国精神

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 米大統領選に絡む民主党候補指名争いは、オバマ候補とクリントン候補の極めて激烈な戦いがシーソーゲームのように続いて長期化している。今年11月の本選に至る史上最強の国家の国家元首を選ぶ狂想曲は、いよいよ調子を高めてきた。米国民がこぞって躁状態となるこの「お祭り」の背景を探ってみる。

 米国には、あらゆるものを超越した聖なる存在としての国教会はないが、この真空状態を大統領制を核とする国家制度・政治体制自体が不断に埋めている。その大統領制に権威を与えているのが米国精神、換言すれば米国の「見えざる国教」だ。これは、馴染みにくい言葉ではあるが、「米国市民宗教」(American civil religion)と言われている。

 「ユダヤ・キリスト教的伝統」に強く彩られながらも、宗派の別を超えて米国市民なら誰でもが持っている心のありよう、思考・生活様式―。米国精神=米国市民宗教は、大統領制を軸とする米国の政治体制自体が、極めて濃厚な宗教的側面を持っていることをうかがわせている。

 2001年9月11日の同時多発テロからその後のアフガン報復空爆、イラク戦争と、対テロ戦争遂行に突き進んだ米国の論理は、以上の米国精神の分析を通じてより的確に把握可能となるはずである。

米国の総人口は、国連統計によると、2001年の段階で2億8480万人。その総人口に占める宗教別割合を見てみると、プロテスタント56%、カトリック28%、ユダヤ教2%、その他4%、無宗教10%―といった具合になる。

 プロテスタント、カトリック、ユダヤ教は「ユダヤ・キリスト教的伝統」に彩られた宗教であり、旧約、新訳の違いはありながら、同じ聖書を聖典とする共通項が存在する。これが総人口の86%を占めている。さらに東方正教と、その他に含まれているキリスト教に極めて近いモルモン教を含めて考えると、その合計は88%に達する。要するに米国は、宗教的にとらえれば、圧倒的多数が「ユダヤ・キリスト教的伝統」を信仰の核としていることになる。

 半面、米国は国教を持たない国だ。旧大陸のような国教制度を否定し、個人の信教の自由を守ることは、独立戦争とその後に制定された合衆国憲法の最も基本的な理念である。そして国教制度の否定、信教の自由を保証する要となるのが日本語で言う「政教分離」の原則である。

「政教分離」に当たる英文は"Separation of Church and State"だ。トマス・ジェファーソンが1802年1月1日にコネティカット州ダンベリーのバプティスト・アソシエーションにあてた書簡の中で初めて使用した。「国家と教会の間には壁(wall)があり、教会はこの壁によって国家の介入から守られ、教会は聖書に記された諸価値を人々に教える自由を持つ」というのが同書簡の要。

 1787年に制定され1789年に発効した合衆国憲法には、"Separation of Church and State"という語句は直接的には記されていない。だが、この語句が盛り込まれた前述のジェファーソンの書簡は、同憲法の修正第1条に"Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof..."として引用され、合衆国憲法が特定宗教の国教化を禁じ、信教の自由を保証していることを米国民と全世界に向けて発信している。

 したがって、"Separation of Church and State"は、米国でも憲法学的には現在も論議を呼んでいるところではあるが、合衆国憲法の一構成部分と考えるのが妥当だろう。

 いずれにせよ、ここが非常に重要な点だが、決して"Separation of Politics and Religion"ではないのである。

国家と教会の分離は、旧大陸における宗教的迫害を逃れて1620年、信仰の自由を求めてメイフラワー号で新大陸にわたった分離派ピューリタン102人が切に願ったものだった。

 その要諦は①国家が特定の教会に便宜を図ることを拒否②公金を特定の教会に拠出することを拒否③国家が特定の教会を宣伝することを拒否④国家が特定の教会を国民に強制することを拒否⑤信ずる教会によって差別されることを拒否―の諸点。

 このため、米国には、あらゆるものを超越した聖なる存在としての国教会はない。しかしながら、この真空状態を真空状態のままに放置すれば、国家が瓦解する危険性が増す。だからこそ、大統領制を核とする国家制度・政治体制自体が、この真空状態を不断に埋めている。そして、その大統領制に権威を与えているのが米国精神=米国市民宗教、換言すれば米国の「見えざる国教」というわけだ。

 米国精神が一番端的に示されているのは、1961年1月に行われたジョン・F・ケネディの第35代大統領就任式典における就任演説だと言われる。

 「今日、われわれは、党の勝利を祝うのではなく自由を祝うのである。それは始まりであると同時に終わりの象徴であり、変革であると同時に新生をも意味する。。。最後に、あなた方が米国市民か世界市民かを問わず、われわれがあなた方に求めるのと同じ大きな勇気と犠牲を、われわれに求めていただきたい。われわれの唯一の確かな報いである良心に従い。。。神の祝福とご加護を求める。この地上において、神のみ業を真に実現するのは、われわれであるということを心に刻みつつ。。。」

 ケネディはこの演説からわずか2年10カ月後、ダラスにおいて凶弾に倒れたが、彼の残した言葉は、不滅の輝きを持って今も心に訴えてくる。

  • 神は存在する。
  • 神の意志は民主的手続きを通じて理解され、実現される。
  • 国家ではなく神によって権利は存在する。したがって、国家は個人の権利に介入できない。
  • 米国人は、この地上において神のみ業を達成する義務を負う。米国は過去、神の主要な代理を務めてきた。
  • 米国は神に選ばれた国である。米国は正しい宗教、個人の自由、民主主義政治の恩寵を受ける国として全世界の模範とならなければならない。それは神から与えられた米国の義務である。

 歴代の米大統領が就任に当たって口にし、ケネディの演説で最も象徴的に示された以上の4点こそ、米国精神の神髄であり、人種のるつぼ、宗教のるつぼと称される米国を一つにまとめ上げる求心力となってきたのである。

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このブログ記事について

このページは、J_Ishikawaが2008年3月16日 07:11に書いたブログ記事です。

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