2009年2月アーカイブ

 2月10日に実施されたイスラエル国会(クネセト)総選挙で第1、第2党となった中道カディマと右派リクードは、連立工作で互いにしのぎを削っていたが、同国のペレス大統領は20日、リクード党首の強硬派ネタニヤフ元首相に組閣を要請。ネタニヤフ氏はこの日、同大統領とともに記者会見し、カディマや第4党となった労働党との連立も視野に入れた挙国一致内閣樹立に意欲を見せた。

 オバマ米大統領は就任前からパレスチナ和平に前向きの姿勢を示しているが、首相就任に執着するネタニヤフ氏は、イスラエルが直面する最大の脅威は核兵器開発を進めるイランであると言明、パレスチナ和平を脇に退ける姿勢を示した。カディマの対応は不明だが、このネタニヤフ氏の「それいけドンドン」型のアジ演説姿勢を前に、野党にとどまる公算が大きい。労働党はもちろん「ノーサンキュー」だろう。

 「最大の脅威はイラン」という発言を前に脳裏をかすめる事件がある。1981年6月7日に起こったイスラエル空軍機によるイラク・タムーズにあった原子炉爆撃事件がそれだ。フランスの援助の下に、イラクが建設を進めていたオシリス級原子炉が爆撃・破壊されたこの空爆は、国連安保理が対イスラエル非難決議を行うなど国際的な非難を浴びた。

 が、10年後の1991年勃発した湾岸戦争では、「イラクがイスラエルに撃ち込んだスカッド・ミサイルに核が搭載されていなかったのは原子炉爆撃の結果」との見方が支配的となり、イスラエルの空爆が再評価される結果となった。イスラエル政府自体は爆撃の翌日、自ら空爆を発表し、1)イスラエルの安全保障のためにイラクが核武装する以前に先制攻撃した2)原子炉稼動後に攻撃したのでは「死の灰」を広い範囲に降らせる危険があった―として、この奇襲先制攻撃を正当化した。

 この空爆はイスラエル国内では政権党だったリクードにプラスの方向で作用し、3週間後の選挙では当時のベギン首相率いるリクードは大勝した。エジプトの和平条約締結とこの空爆成功が、反英独立闘争時から極右でならした故ベギン首相の全盛時代といえる。ベギン首相は1年後の1982年にはレバノン戦争を発動、故アラファト議長らパレスチナ解放機構(PLO)指導部をベイルートから追い出すことに成功したが、戦後処理に手間取り1983年に辞任。1992年に他界した。

 まあ、ネタニヤフ氏が、このベギンにならって対イラン奇襲先制攻撃を仕掛けるかどうか現時点では不明だが、必要とあればためらうことなく実行するイスラエルのやりかたは過去の事実がよく示している。これは忘れない方がいいだろう。いずれにせよ、当面はパレスチナ和平の「パ」の字すら出てこないだろうが、政治的に見れば、対イラン奇襲先制攻撃で、国民の支持を取り付け、返す刀で衝撃的な対パレスチナ譲歩を示す可能性がある。オバマ米政権との駆け引き次第ということになろうが

 建国、独立など国民国家形成過程では、様々な理想主義がその動機となるが、世代を経ると左派的な民族主義は勢力を失い、建国・独立過程を知らない世代の右派的な民族主義が台頭する。若い世代にとっては境界線・国境線は妥協の産物でも血と涙で勝ち取った苦労のたまものではなく、既に生まれたときからそこにあった既得権のひとつだ。中東で唯一欧米的な民主主義を謳歌するイスラエルとて例外ではない。

 このイスラエルで10日、クネセト(国会、定数120)の総選挙が実施され、中道カディマが第1党となり、右派のリクードが第2党に躍進、第3党は極右の「わが家イスラエル」。建国に至る反英独立闘争、建国から第4次中東戦争まで政治の中心だった労働党はついに第4党にまで凋落した。同国選管の12日発表では、最終結果はカディマが28議席、リクードは27議席、「わが家イスラエル」は15議席など。労働党は13議席にとどまった。

 1973年の第4次中東戦争で、常勝イスラエルの神話が崩れ、武力で1967年第3次中東戦争後の境界線を維持することが不可能なことを知ったイスラエルだが、シナイ半島をエジプトに返還しイスラエル・エジプト和平条約締結という重大な決断を下したのは、労働党ではなく、リクードのベギン政権である。左派が妥協すれば「弱腰」と叩かれるだけだが、右派が妥協すれば「あの強硬派が受け入れたのだから」と前向きにとらえられる。「右派こそ譲歩できる」という政治の鉄則の証左である。

 パレスチナ解放機構(PLO)側も、1990―91年の湾岸危機・戦争で当時のフセイン・イラク政権に肩入れしてアラブ陣営から総スカンをくらい壊滅に近い打撃を被った痛手から立ち直ろうと奔走、アラファト議長が労働党のラビン首相との間で1993年、いわゆるオスロ合意を結ぶ。パレスチナ自治政府を生み出すことになった重要な合意だが、肝心のラビン首相が、狂信的なイスラエル極右青年によって暗殺され、今に至るパレスチナ混迷の源となる。

 ナチスドイツのホロコーストを生き延び、社会主義的な理想を掲げてイスラエル建国を闘った世代が去って、「境界線・国境線は既にそこにあるもの」と認識するポスト建国後に生まれた世代が政治の中枢に入ると、勢力を伸ばすのは当然ながら右派だ。彼らにとって、国連の「パレスチナ分割決議」を受け入れてともかくも独立を果たそうと奔走した親の世代の苦労など全く知らない。パレスチナ人は、イスラエルの安全を脅かすテロリストでしかない。>/p>

 PLO側とて同じことだ。オスロ合意を結んでともかくもイスラエル側と共存し、パレスチナ独立国家を実りあるものにしようとした故アラファト議長の思惑など知りはしない。異教徒ユダヤ人を東エルサレムから追い出せと呼号するイスラム原理主義が、若者の心をとらえ、現実的な政治手段は影を潜めるばかり。原理主義組織ハマスは、オスロ合意でパレスチナ自治区となったガザ地区を武力で実効支配。イスラエルにロケット弾攻撃を加えて得意顔だ。

 今のイスラエルに、パレスチナ和平を追求しようという国民的合意はなく、対パレスチナ強硬姿勢に拍手を送るばかりで、それは今回のクネセト総選挙でも改めて示された。パレスチナ側も状況は同じ。アラブ陣営とイスラエルの全面戦争という図式は途絶えて久しいが、混迷の継続、逼塞状況の継続という息苦しい雰囲気は、今後も10年単位で続いていくだろう。

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