2009年6月アーカイブ
ホメイニ師は鬼籍に入って久しく、宗教界保守派イスラム共和党(IRP)の重鎮の1人として同師を支えたハメネイ師が、最高宗教指導者としてイランの精神的支柱となってからも幾星霜が流れた。初のイスラム革命として世界を驚愕させ、後に在テヘラン米大使館占拠・人質事件を引き起こし悪名をはせたイランだが、そのイランが、12日行われた大統領選の結果を巡り揺れている。
ハメネイ師は19日、今回の大統領選で現職・保守強硬派のアハマディネジャド大統領が再選を決めたあと初めて行われたイスラム教金曜礼拝で導師を務め、「(アフマディネジャド再選は)国民の選択であり、選挙結果を変えることは容認できない」と断言、アフマディネジャド再選の事実を確認するとともに、改革派のムサビ元首相支持派に対しデモ終結を要求した。
テヘラン中心部で行われた金曜礼拝には数万人が参加。ハメネイ師は「街頭行動は、候補者の不当な要求を体制が受け入れるための圧力とはならない。背後にいる(ムサビ氏ら)指導者が結果の責任を負うことになるだろう」と非難し、大統領選で敗れたムサビ元首相支持派の主張を「不当な要求」と断言。今後、革命防衛隊による街頭デモの撤退的弾圧の可能性を示唆した。
要するにハメネイ師は、開票結果を疑問視するムサビ元首相やその支持者を単に批判するばかりで、アフマディネジャド大統領の政権に潜む「腐敗の芽」をどうやって除去するか、もしくは取り除ける可能性があるのかについては全く言及せず。いかにイスラム体制と言えども、改善すべき点はきちんと認めて、改善に努力しなければなるまいに。。。
これまでの段階で、イラン大統領選の開票結果をめぐるムサビ元首相支持派と当局側官憲の衝突は、少なくとも全国11都市に広がり、当局などの弾圧による死者は累計で少なくとも15人になった。ムサビ元首相は17日、声明を出し、選挙無効と再選挙を改めて要求、抗議デモ継続の姿勢を示した。
イランの有力な人権団体によると、南部シラーズでは16日夜(日本時間17日未明)、1万人近いムサビ元首相支持派と警官隊が衝突。当局は市内に外出禁止令を出したが、抗議行動は17日未明まで続いた。中部イスファハンでは、中心部で抗議集会が17日未明まで続き、多数の負傷者と逮捕者を出した。中部ヤズド、西部ハマダンでも負傷者が出た模様。
イランとの対話を大統領選時代から模索しているオバマ米大統領は、困惑の体だ。対話は相手側がしっかりしている時にのみ成り立つからである。が、ともかくも、米上院と下院はともに19日、イラン大統領選の不正疑惑を巡る連日の抗議デモを弾圧しているとして、イラン政府を非難する決議を採択。この決議に拘束力はないが、及び腰のオバマ大統領に対する「圧力」にはなっている。
時は大英帝国を頂点とする欧州列強の植民地主義が全世界を跋扈した時代。英国人ウィリアム・ダーシーは1901年、まさに20世紀が始まった年に、ペルシャ(現イラン)の皇帝から石油採掘の利権を獲得。ダーシーは7年余の試掘を重ね、1908年、ついにイラン南部で油田を発見する。石油利権とその石油利権を巡る各国の抗争のタネが、ここにまかれたのだ。
このとき、ダーシーはアングロ・ペルシャン石油という採掘・供給会社を設立した。これが、現在の石油メジャー、ブリティッシュ・ペトロリアム(イギリス石油、BP)のそもそもの始まりだ。英国は1914年、第1次大戦で使用する燃料確保のため、400万ポンドもの大金を出してアングロ・ペルシャン石油株式の50%以上を獲得、半官営化。この状態は1970年代に完全民営化されてBPとなるまで続いた。
ちなみに、日本タンカー史をひもとくと、1921年(大正10年)に建造された日本初の本格的な民間外航油槽船、「橘丸」が、当時の満州・大連で大豆油を満載してロンドンに赴き、帰路にイラン・アバダンでこのアングロ・ペルシャン石油から8000トンの石油を購入、帰国している。アバダンは、イラン南西部のペルシャ湾に注ぐシャトルアラブ川の東岸に臨む河港都市。イラン革命の火の手は、1978年に最初にここで上がった。のちにイラン・イラク戦争に巻き込まれる。
第1次世界大戦で大英帝国の対枢軸国戦を支え、第2次世界大戦でも英国をはじめとする連合国側の対ナチスドイツ戦を支える大きな要素となった中東石油は、そのまま石油利権抗争史として世界史上に刻まれる。BP、モービル、エクソン、ロイヤルダッチシェル、テキサコ、ガルフ、ソカールのセブンシスターズ(国際石油資本)の手に落ちた中東石油だが、1973年の第4次中東戦争でそのタガが緩み始める。そして1979年のイラン・イスラム革命。前年にアバダンで上がった火の手が、盤石を誇ったパーレビ王政を倒したのだ。
それからちょうど30年。この12日投票の行われたイラン大統領選は、即日開票作業に入り、同国内務省は13日朝(日本時間同日午後)、開票率約90%の段階で、保守強硬派の現職、アフマディネジャド大統領(52)が66%を得票し、改革派のムサビ元首相(67)は33%と発表。イラン国営通信(IRNA)は、同大統領が決選投票を待たずに再選を決めたと報道、大統領陣営も勝利宣言。
アフマディネジャド大統領は、ホロコースト(ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺)否定など対外強硬発言を繰り返し、国連の経済制裁を招いた核開発問題でも交渉を拒否、イランの国際的孤立を深めた張本人。オバマ米大統領は、大統領選時代から核拡散防止条約(NPT)の枠内でのイランの平和的核開発は否定しないとし、イラン核問題の交渉による解決に意欲的だが、はたしてこれが今後どう動いていくのか。
IRNAは5月20日、アフマディネジャド大統領の発言として、イランが同日、射程距離約2000キロの新型の地対地ミサイルを発射実験に成功したと報道。同大統領は「先端技術を持つ『Sejil 2』ミサイルを本日発射した。ミサイルは正確に目標に着弾した」と述べた。IRNAによるとミサイルは東部のセムナン州から発射された。アフマディネジャド大統領は同州を訪れていた。イランの別の長距離ミサイル「シャハーブ3」も同程度の射程距離を持ち、イスラエルをはじめ、湾岸諸国内の米軍基地が射程圏内に入る。
イスラエルのネタニヤフ極右政権は、イラン核をパレスチナ問題を上回るイスラエル最大の脅威として位置付けているが、保守強硬派のアフマディネジャド大統領再選や、ミサイル発射実験の報道などを勘案すると、あながち全否定はできない。
「テロとの戦い」、イラク戦争と「米国の世界認識」をアラブ・イスラム圏に押しつけて極めて評判が悪かったブッシュ前政権に代わり、「新たな関係再構築」を目指して動き出したオバマ米大統領が3日のサウジ訪問を手始めに、4日にはエジプトの首都カイロを訪問、同地のカイロ大学で、「世界のイスラム教徒と米国との新たな(関係の)始まりを求める」旨を骨格とする大演説をぶった。
他方、カタールの衛星テレビ局アルジャジーラは3日、国際テロ組織アルカイダ指導者ビンラディンのものだとする録音テープを放送。このテープは、オバマ大統領がサウジに到着した直後発表されたもので、テープの中でビンラディンとされる人物は、パキスタンでの武装勢力掃討作戦を米国の「命令」と主張、同大統領が「米国への憎しみと報復の新たな種をまいている」と非難。
ブッシュ前政権の対イラク政策を強く非難してホワイトハウス入りしたオバマ大統領だが、「テロとの戦い」に関しては「完遂」することを確約しており、クリントン国務長官ともども、この点では米国の政策に揺るぎはない。ビンラディンが生きていればの話だが、オバマ大統領とビンラディンの最初のジャブの応酬がここに開始されたわけだ。はるか東方では北朝鮮がミサイルをぶっ放すし、剣呑な世界ではある。
それはともかくとして、オバマ大統領はカイロ大学での演説で、インドネシアというイスラム世界で育った自分の体験を踏まえ、互いの差異より共通点に目を向け、「パートナー」として世界の平和と繁栄に責任を果たそうと呼びかけて、「相互の利益と敬意」に基づく関係強化を強調。
その上でオバマ大統領は、中東における米国の強固な同盟国イスラエルによる「パレスチナ人の苦しみが続く現状は認められない」と断言。パレスチナ側に暴力放棄を求める一方で、イスラエルによる占領地でのユダヤ人入植地建設は「受け入れられない」とし、双方に自制と譲歩を要求。
また、占領地の返還などと引き換えにイスラエルとの関係正常化を提示したアラブ側の和平構想(アブドラ・サウジ国王が2002年に初めて提示)を「重要な出発点」と評価。
さらに、イスラエルが極めて危惧するイランの核問題では、イランに対し、核問題などでの無条件の対話再開を呼び掛て「中東での核軍備競争を防ぐ」ことを改めて主張。その上で、同大統領は、核拡散防止条約(NPT)の枠内での原子力の平和利用に関しては、イランがこれを追求することに反対しない旨宣言した。
また、民主主義や女性の権利、言論や宗教の自由などへの強い支持も表明。アラブ各国独自の改善への取り組みを尊重する姿勢を示した。
まあ、このカイロ演説だが、米国の対中東政策を披瀝したというよりも、オバマ大統領自身の、仮に「文明の衝突」なるものがあったとしたら、それをいかに食い止めるかの意欲表明に近い。政治性よりも倫理的、哲学的側面が目立つものだ。「その言やよし。では具体的にどうするのか?」という点が今後とも問われているわけだが、この面では依然として不透明である。
オバマ大統領
